でにでに日記

日頃の気づきなどを発信しています。

「唯識の思想」 感想

「唯式の思想」:横山絋一 を読んだので、感想とまとめを書きました。

唯識とは

唯識とは字の通り(ただ)、八種類のによって成り立っているという考え方。

八種類とは

  • 視覚
  • 聴覚
  • 味覚
  • 嗅覚
  • 触覚
  • 意識
  • 末那識 まなしき(無意識・自己執着)
  • 阿頼耶識 あらやしき(無意識・万有発生の根本)

で自分だと思っているものは唯(ただ)の身体、唯(ただ)の心だということです。

自分という存在

どうして、唯だの心、身体になるのか?

まず、ピラミッドを想像してほしい。ピラミッドは多くの岩を運び、積み上げて作られている。それをピラミッドと名付けているだけで実際はただの岩の集まりである。

もちろん、岩も岩と名付けているだけで砂が集まり固まっただけ、その砂も…というように人の認識でそうなっているだけです。

 

では、自分は?自分の手や足といったものも唯の細胞の集まりなのだから

自分というものは存在しないのです。

 

極楽と地獄

自分というものが存在しないということは他(ヒト・モノ)も存在しないということです。

では、なぜ存在しないのに衝突するのでしょうか。

それは自・他を区別しているからです。

  • 自他を区別する →  地獄
  • 自他が一如   →  極楽

他を区別しないようになるとそこは極楽に変わり、区別すると地獄になる。つまり極楽地獄は現世に存在するということです。

 

意識による感覚の明瞭化

  • 荷物を持っている時、「重そうですね」と言われる。すると、急に荷物が重く感じる。
  • ある人に憎いという感情が芽生える。すると、いつもそのことを考え、時間が経つほどその人のことが憎くなる。

「重い」や「憎い」という感情は外からの影響や考えなどで色付けされている。実際は唯のモノであるはずなのに、見えている、知っているのは「意識」で色づけされた世界である。

 

真理に至る四段階

  1. 正しい先生に出会う。
  2. 正しく聞く。
  3. 聞いたことを正しい法則に則し思考する。
  4. 真理に至る。

正しい先生に出会う

人は弱いもの。本などから多くのことを学ぶことはできるが、強いエゴが生まれる。(自分は他の人より努力・理解しているなど)だから、隣にいるだけで自分のエゴを恥じるような厳しく怖いが、慈悲深い先生に出会うことが大切で(学問も、スポーツも)、そのためには学習機関での学びも大切だが、世間を歩いて、良い先生に出会いにいかなければならない。

 

正しく聞く

正しい法を正しく繰り返し聞くことが大切(正聞薫習:しょうもんくんじゅう)

 

「止観」(ヨーガ)の実践

正しく物事を捉えるには止観=ヨーガが大切です。

「止」=乱れた心を静める

「観」=ありのままを見る

 

波のたっていない静かな水面には満月がありのままに映し出される。明鏡止水の静まった心であれば、ありのままを見ることが出来る。その状態になるために心のエネルギーの浪費を消す必要がある。そのために

  1. 静かなところで目を閉じる(聴覚と視覚は大きな刺激であるため)
  2. 呼吸に集中し、エネルギーを全て呼吸に集中する
  3. 心が静まり澄んでくる
  4. 息になりきる

この何かに成り切った心を「念」という。「念仏」とは仏の姿をイメージし常にその思いを描き続けること。

 

「菩薩」とは

菩薩・・・誓願を起こした人のことです。

誓願とは

  1. 悟りを求める
  2. 苦しむ人を救う。

この二つを神仏に誓い、願うことです。

苦しむ人を救う=利他行の注意

どうしても人は施し、助けを行うとそれをしてあげたという慢心が生まれる。

そうならないために「自」「他」「行為」の3つを分けないことが大切。

→そうすることで汚れた種子を失くし表層の行為が深層心を変えることになる。

 

これはろうそくが燃える様子で例えることができます。

ろうそく(煩悩)を燃やす →   他者に暖かさと明かりを与える

 

ここからもわかるように他者と共に生きる様は

  1. 他者への良い影響
  2. 自己を清める(煩悩がなくなる

と二重の働きがある。

体が不自由な時も優しく微笑んでいよう。そうすれば、他者に安らぎを与えることができる。

 

「菩薩」のありよう

「瑜伽師地論」で書かれている「菩薩」のありよう

  • 何を苦とする → すべての生き物の損悩
  • 何を楽とする → すべての生き物の饒益(にょうえき = 慈悲を持って利益を与えること)
  • 何を作為(考え)とする → あるがままの有り様を悟ろうとすること
  • どう生きる → 「無分別智」に生きる

※無分別智(むふんべっち)とは「自」と「他」と間の行為を分けないこと

 

ひとつひとつの行為を大切にする

他人に迷惑をかけていない行為(自分の部屋を汚す、自分を卑下する等)、これは誰にも損害を与えていないのだから問題のない行為に思える。

しかし、そう思っていても損害を被っている人はいるし、確実に被害を受けているのが1人いる。それは自分自身である。そういう行為をすることで自分の深層心に影響が出ているのは間違いない。

ですから、一つ一つの行為、つまり使う言葉や行動、姿勢などを変えることで深層心に影響を与えるということを心に留めて置かなけれなならない。

 

「コンプレックス」や「悩み」との向き合い方

「コンプレックス」「悩み」というのは非常に大きな力を持ち、時に人に死という選択をさせることがあります。

ではどうして、そのような感情が芽生えるのか。それにはエゴが関係しています。

たとえば、他者が美しく見えた時、どうして自分はと落ち込むと思います。しかし、「他」というものは存在しないのです。

鎌倉時代の学僧 良遍の著作「観心覚夢抄」この著作名は「心を観察して、夢から覚める」という意味です。家庭・学校・職場の関係などの悩みは現実だと思っているが、仮の世界・夢の世界だと気づくことが大切ということです。

感想

 自分や他人というものが、単なる細胞、細胞が分子などの集まりであり存在はしなく、ものというのも名前や思いで色づけされたものということも理にかなっていて理解することはできた。だが、今の自分ではそれを実践するにはまだまだ人間力不足で大きな障害にぶつかった時、そのような考えでどっしりと構えられないと思う。

 

 ただ、この考えの重要性は理解したので、その状態に至るためまず一つ一つの行為を正して自分の深層心に良い影響を与えていこうと思う。そして、世間を歩き良い先生と出会い、正しく繰り返し聞き他者に喜ばれること、利他行をする。そしてそれに対して施してやったなどという慢心を持ってはいけないという事を肝に銘じる。

 

 以前、吉岡秀人さんという特定非営利団体ジャパンハートの代表、医師として医療の届かないところで尽力されている方の著作「救う力」のなかで

「人のために役立ちたい」と考えるのは悪いことではない。その思いを実際に行動に移すことができれば、すばらしいことだ。だが、「人を救う活動や行為は誰のためか」と問われたときに、「世のため、人のため」という人間を、私はあまり信用しない。社会的な貢献活動も、あくまで自分がやりたいからやっているのだ。やったことが結果として社会に役立つことにもなるが、最初の動機は、自分がやりたいことをやって満足感を得たいからだ。私自身の海外医療活動も、「困っている人がいるから、やらねばならない」と義務感を背負っているわけではない。海外で困っている人がいる現状を自分が見過ごすことができないから、医療活動をやっている。つまり、自分がやりたくてやっているのだ。

吉岡秀人. 救う力 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1451-1458). Kindle 版. 

活動は世のためではなく自分のためだとおっしゃっていた。自分のような凡人からするととても素晴らしいことを行なっていて、してあげているという慢心が芽生えると思うが、自分がしたいからしているという利他行を行いながらも自分のためにしているという考えに頭がさがる。これは本書の「菩薩のありよう」と合致するところがありこのよう中の生き方を見習っていこうと思った。